「捨て石」となったのは沖縄だけか?

7月6日の沖縄における安保法制の地方公聴会において、稲嶺名護市長が「もし有事となれば今の沖縄が真っ先に狙われ、またしても沖縄は捨て石にされる」と発言していた。

たしかに、沖縄は本土決戦準備の時間を稼ぐための捨て石となり、住民は戦闘に巻き込まれ、筆舌に尽くしがたい経験を強いられたことに間違いはない。

ただ、大本営は沖縄に対して何もせず、一方的に見捨てたわけではない。

サイパン島の悲劇を繰り返さないために住民の疎開が行われたが、船舶不足のため全住民を島外に疎開させることが出来ず、約10万人もの住民が犠牲になった。

それでも、沖縄本島からは約10万人、八重山列島からは約3万人が疎開することが出来た。学童を乗せた対馬丸が、撃沈されるという痛ましい事件が起きたのはこの時である。

本島内に残った約30万人の内、約10万人は軍に組み込まれ、残り60歳以上の老人、婦女子、児童の約20万人は、本島北部に疎開させようとした。

しかし、日本軍が負ける訳がないと必勝を信じて疑わなかったため、中々、思うように疎開させることが出来ず、結局、疎開できたのは1/3程度にとどまり、取り残された住民が戦闘に巻き込まれることになった。

米軍上陸後も、全国からかき集めた旧式の戦闘機で米艦艇に特攻を行い、菊水作戦では、その数1580機にも及んだ。「義烈空挺隊」は飛行場に強行着陸を試みたが全滅した。また、戦艦大和は片道燃料を積んで水上特攻を試みるなど、適わぬまでも、全滅を覚悟で、米軍を撃退するために懸命の努力を行ったのである。

沖縄だけでなく、グァム、サイパンも同じように捨て石になり、将兵だけでなく、数多くの民間人が犠牲になり、降伏を潔しとしない多くの婦女子が断崖から身を投じた。

もし、日本が8月15日に降伏することなく戦争を続けていたら、九州が、そして、関東地方が、松代大本営を守るために捨て石となり、双方に、膨大なる犠牲が出たであろう。

たしかに、沖縄においては、多数の民間人が戦闘に巻き込まれて命を失ったが、日本本土においても、広島、長崎の原爆投下のみならず、東京大空襲を始め各地方都市においてもB-29の絨毯爆撃によって、何百万人もの無辜の民が焼夷弾で焼かれた。

また、戦争が終わったにも関わらず、ソ連軍の侵攻を受けた樺太や千島列島では、守備隊が捨て石となって頑強に抵抗して、北海道本島を守ったのである。

太田実海軍司令官が「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の訣別電報を発して自決したように、沖縄県民の犠牲的精神に心から感謝し、犠牲となられた方々に哀悼の意を捧げるものではあるが、太平洋戦争において、数多の住民が命を失い捨て石になったのは、何も沖縄だけではないことも、同時に、心の片隅に留めておいて欲しいと思うのだ。